11激震!売上半減

1996年3月期には売上141億円を計上したサンギ。しかし明らかに不穏な兆候があらわれていた。
何があったのか?アパガードのヒットに青くなった大手は次々と追随。最前線の売り場は激しい価格競争へと突入し、大手の資金力には耐えられず、後退を余儀なくされていた。

積極的な攻勢で、マウスウォッシュや糸ようじ、歯周病予防など次々と製品を増やしていたが、元々マーケティングに精通した社員がおらず、一般流通に出てしまった製品の販売を管理できる営業経験のあるスタッフもいなかったため、これらの製品はデザインもばらばらで、統一感がない。ブランド力を失ったアパガードは価格訴求に頼るしかなかった。

また当時は埼玉県春日部市の中央研究所の他に、大阪・新潟・札幌・北海道の4つの研究所を設置し240名の社員を抱えていた。本来なら売上100億円規模の陣容では、もはや維持できない。サンギは倒産の危機を迎えていた。

歯みがき剤市場に美白という新たな地平を切り開いたアパガードは、美白ばかりを訴求していた。肝心な「歯の再石灰化」「ミクロの傷の修復」「歯垢の吸着除去」など、むし歯予防成分「薬用ハイドロキシアパタイト」 の持つ優れた作用をもっと訴求していれば、価格ではなく機能で差別化できる可能性は十分あったはずだ。

佐久間は自分の失敗に直面せざるを得なかった。これ以上借り入れを増やせる見込みもなく、自宅を担保に入れても、もう資金繰りが続かない事態に追い込まれていた。
そんな時、友人でもあった公認会計士から倒産したときの対応について尋ねられ、「また1 人でやり直します」と答えた。友人からその覚悟を持つことが大切だと告げられ、少し気が楽になった彼は、組織も事業も縮小することを決断した。

その後社員を 60人までに縮小。しかし規模の縮小はあくまでも後退戦に過ぎない。
縮小したのちに再び前進を勝ち取らなけれぱ結局敗北してしまう。ここからまた長く困難な道のりの始まりだった。

(写真は、当時アパガードブランドから発売した商品)